今回は、学習のハウ・ツーから離れて、近頃感じたり考えていることをお話ししたいと思います。
算数や理科を学習する際の、言葉の大切さを痛感しています。
それは、簡単に言うと、
「もっとちゃんと読みましょう。」
とか、
「読み飛ばさないようにしましょう。」
と言うことなのです。
でも本質はもう少し深いところにありそうなのです。
「てにをは」の使い方に関してはこれまでに何度かお話しさせていただきました。
算数や理科の問題文を読む上で、
「私は本を読むことが好きです。」
「私は本を読むことは好きです。」
とか、
「私は一冊の本を30分で速読することができます。」
「私は一冊の本を30分で速読することはできます。」
のようなニュアンスの違いは大きな問題ではありません。
もっともっと単純な、
「~を~する」とか「~から~を~する」というような、包括関係や原因や結果の流れをさししめす語が正確に使えるかどうかです。
どちらかというと、図示できるように単純化する力と言えると思います。
また、音読の大切さについても何度もお話しさせていただきました。
算数の問題が解けないと質問した生徒に対して、
「じゃあ、問題文を音読してごらん。」
と、目の前で音読させることだけで、50%は解けてしまう。
また、文字を読む際に、ここは注意深く読もうと思ったときには、
頭のなかで文字情報が音声情報に変化して、音が回っています。
だからこそ、頭のなかで回る「内語」が大切だというお話です。
でも、それだけではないような気がしているのです。
近頃読んだ本で興味深いものがありました。
「今を生きるための現代詩」(渡邊十絲子)講談社現代新書 です。
その一部を引用させていただきます。
< ・・・ところが、やや高級な概念や明治以後の新事物に用いられる漢語については、事情が違う。
高島俊男は、<具体的、動作、形容、本来、高級、概念、以後>などの例をあげていう。>
(本文からの引用)
<これらの語も無論音声を持っている。けれどもその音声は、文字をさししめす符牒であるにすぎない。
語の意味は、さししめされた文字がになっている。
たとえば「西洋」を、ひとしくセーヨーの音を持つ「静養」からわかつものは「西洋」の文字である。
日本人の話(特にやや知的な内容の話)は、音声を手がかりに頭のなかにある文字をすばやく参照する、
というプロセスをくりかえしながら進行する。>
(本文のなかで引用されている文章(高島俊男「漢字と日本人」(文春新書)の引用)
<もとの漢語がそういう言語なのではない。漢語においては、個々の音が意味を持っている。
それを日本語のなかへとりいれると、もはやそれらの音自体(セーとかケーとか、あるいはコーとかヨーとかの音自体)は何ら意味を持たず、
いずれかの文字をさししめす符牒にすぎなくなるのである。>
(本文のなかで引用されている文章(高島俊男「漢字と日本人」(文春新書)の引用)
この部分を読みながら、斎藤孝氏との対談時に、「漢字や熟語の知識や語彙数が大切です。」とおっしゃったことを思い出します。
また、「日本語において漢字の大切さは無視できない。」ともおっしゃっていました。
読むことが不得手な子や、意味を取り違えることが多い子は、そういえば漢字が苦手です。
また、漢字が書けても意味がわからないことが多いのです。
このあたりは、今後の研究課題としていきたいと考えています。